誰もわからないし、わかろうともしないけれど。

私は、私の思うことを、信じることを、共有できる人にこれまで出会ったのは、ただひとりだけだ。

私は、接してきた人の数自体は少なくない。そもそも、交際人数が多いのは母数になる関わった人自体が多い、ということは前提にある。

けれど、それでも、そんな人はいない。

誰かとわかち合うことはできない。 どれほど迫害されても、ともに耐える人も、慰め合う人もいない。 ともに戦う人もいない。私への迫害や差別を咎める人もいない。

この世界にあるどんな概念も。 ペドフィリアも、サイコパスも、発達障害も、 みな仲間がいる。同志がいる。分かり合える人がいる。 私にはいない。だれもいない。なにもない。

オタクやゲイをマイノリティと称することなど、この上なく腹立たしい。 彼彼女らは、十分にたくさんいて、私を迫害する強大な力のひとつなのだから。

楽しいと思うことも、嬉しいと思うこともない。 生きるすべてが、ただただ苦痛で、向けられるものは差別や迫害や無理解や悪意ばかりで。 私が望むものは叶わないだけではない。 否定され、利用され、破壊され、そして迫害されるのだ。 望むことすら許されもしないのだ。


迫害の意味も知らず、苦痛を知ろうとも思わず、 その真実も無責任に否定することが存在すら否定する排除であることすら考えようともしないのだろうか。

すべての事象はその事象が発生する前に確定し、すべての存在する事象は観測しえなくても存在する。 私がどれだけ観測を重ね、そのためにどれほどの鍛錬と研鑽を重ね、傷を深め、苦痛に甘んじ、犠牲を払って、希望を捨てきれず戦い続けてきたか、 ただ普通に生きることさえ叶わず、この世界にひとつでもそんなものがあることを祈って求め続けてきたのか、 ほんのわずかでも思いめぐらせてそれを発したのだろうか。

なにを以て、私の観測を、私が知ることを、否定できるほどのものを持っていると思ったのだろうか。

どうせ聞いたところで答は返ってこない。 それを知るために、それを求めるために苦痛を払い、人生を費やして求めてきたわけではないのだから。 ただ何も考えず、根拠などなく、そこにかけるエネルギーなどない、価値をもたらしていない、ただの否定にすぎないのだから。

そして、そのただの否定で、私が存在することそのものをも否定するのだ。

私が知ることを、この世界のことを、私の言葉の正しさを、どれほど証明したところで誤りを認めるわけじゃない。 それを覆そうとするわけじゃない。そこに少しでもエネルギーを注ぐわけでもない。 大概にして、聞くことすらない。

けれど、否定はするのだ。 私が与えられる量などその程度だ。 私を否定するために考えることすら必要ないと。

そも、諍いで私に背を向けた人自体がひとりしかいない。 それ以外はすべて私を破壊して解決しようとするのだ。 どんな立場も関係なく、もれなく。 例え私が命をかけても、犠牲を払っても、守り抜いても、 私に味方などいたことはない。 幼少から。ただ一度を除いて。

正しいかどうかなど関係ない。事実かどうかなど関係ない。 証明されているかなど関係ない。利益になるかも関係ない。 愉悦を以て排除される。それが迫害というものだ。


そこまでしてその全てを否定して、存在することを許さないとあらゆる人が言うのであれば、 例えそこにエネルギーさえなくても、何の量も与えられていなくても、 私が存在すること自体が望まれることはないのだから、死んでしまえば良いというのに。

なぜ私が死なない体なのか。 それを知る前もそうではないかという疑いはあった。 遺棄された状況からしてもその時点で生きていたはずがないというのだってあった。 低血糖、低体温、生存可能条件を満たしていなくても死ななかった。 死の迫る状況なんて何度も何度も何度もあった。まるで死が避けて通るように死ななかった。 それでも何かの間違いだろうと信じていた。血を失っても、呼吸を失っても死なないのも、なんらかの偶然なのだろうと思っていた。 でも、定形で吊って吊ったまま遡行蘇生するなんて完全に摂理を逸脱している。 「死なない体」なんてファンタジーは現実になった。

これまで私が人の定義を逸脱しているということはいくつもいくつもあった。 それでもそれは、定義が狭野で無知であることに対する皮肉だ。 けれど、生存機能を失っても死なないのはいくらなんでも逸脱しすぎている。 私は人でないというなら一体なんなのか。

それでも苦痛は変わらないのだ。本来なら意識を喪失し感じなくて済むはずの死の苦痛を、死の「味」を味わって、 安寧も終焉も与えられないまま、ただ終わり無く苦痛だけが続く。 まるで、苦痛の矛先であること自体が私の存在であるかのように。


そもあなたは想像できるのか。否ほんのわずかにでも想像しようとするのか。 誰かと連なりのあるわけでもなく、なにかを分かち合うこともなく、関心を持たれることもなく、 何かを楽しいと感じることもなく、何かを嬉しいと感じることもなく、 その全てが果てしなく苦痛で、できることはわずかにどのような苦痛かを選ぶことだけ。 何かに関心を持とうにもその全てが楽しいと感じることも、したいと思うこともできず、ただ苦痛が広がるだけだ。 食事を美味しいと思うことも、睡眠に癒やされることも剥奪されている。 望むものが叶えられることはない。欲するものが与えられることもない。 与えられるのは残酷な無関心か、残虐な否定か、いずれにせよ無責任な迫害と排除にすぎない。

その苦痛を僅かにでも想像しようと思うのか。

34年をすぎて、2年と3ヶ月を除けば私の世界にあったものはそれがすべてだ。 その苦痛の上で私が築いたものを凌ぐほどのものがあるというのなら示してみればいい。さぞ簡単なことだろう。

蓋然性を仮想的に統計値とみなした場合、日本に私が追い求める「言葉を真実たらしめる人」は1.6人いる。 だが、その真実が私の望む真摯なものである保証はない。ましてそれが私に向けられるものかは全く別の問題だ。 現実として私を苦しめないことを本懐として望む人がいる可能性はない。 私にとって苦痛でないものがこの世界に存在する可能性が存在していないのだ。

けれど、それに耳を傾ける者はいない。 同じ思いを持ちうる人はいない。類するものがないから。私はひとりだから。 それが、本当の孤独で、真の少数派だから。


保有する世界の量を最大化するようにしているから、私が保有する量は膨大だ。 物理的には制約が大きいのでさしたる差は生じないが、知の側面や思うことに隔絶を生じるほどの量を持つ。 そして、その量を、自己保全に必要なものすらも損失してまで愛憎に振り向けている。

あなたが私の世界に関わる人であるならば、あなたのことを考えない日はないといえば驚くだろうか。 あるいは、それをあなたに向かって言えば愛の告白のようにすら聞こえるかもしれない。 けれど、私にとってすればその範囲ですべての人について自然に行う程度のことで、呼吸するのと大差ない。

その程度の範疇であっても、望むなら、排除の危機にあれば私は犠牲を払ってでも、命を賭してでも守るだろう。 例え、私があなたのことを嫌いでも、あなたが私に害なす存在であっても。 そこに覚悟もあるけれど、私にとってすれば大した愛情でもない。 それは、あなたにとって眠くなれば眠るという程度のことでしかない。愛さないという選択肢がないのだから。

膨大な量を持ち、常軌を逸するほどにそれを愛憎に振る。 当然に、持ちうる愛情の総量は膨大になる。 それを簡単に笑うのか。それを簡単に見下すのか。その否定はどれほどの根拠があるのか。

私が友人と呼ぶのなら、道を踏み外すとき、私は例えこの存在を失ってでも立ちふさがり、打ち砕く覚悟がある。

私が恋人と呼ぶのなら、誰かを見殺しにしてでも、誰かの存在を剥奪してでも守り抜く覚悟がある。

けれどその愛は、ただ私を苦しめるために、私から奪い取るために利用されるだけだ。 報いられることなどない。報いられたことは、ただ一度しかない。


私にとってこの世界に価値をなすものがない。 そこにあるのはただ嫌悪し、忌避するものだけだ。

だからこそ、みずきは私にとって世界で唯一の価値であり、 この世界の価値のすべてだった。

失った理由は一重に私が責められるべきものだ。

けれど、どうしたってその事実は、私の世界のまんなかに固定される。


そしてこれでまた、私の持ちうるすべてがこの世界で意味をなさない証明をひとつ、積み上げる。

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