ステージに上がる人、ステージに送る人

ステージに立つ人

私は音楽家として、また俳優として何度も舞台に上がっている。小さいところから、それなりに大きいところまで色々だ。その中で大きいのは、やはりヤマハのコンクールだろう。

私は、ステージで緊張したことはない。元々非常に緊張しやすかった私だが、舞台袖で緊張したこともない。もっとも遅くまで緊張していても、せいぜいリハーサル後、開場前だ。開場した時にはもう、関係はできあがっている。

ヤマハのコンクールというのは、一般的なライブやコンサートにしか行ったことのない人にとっては想像を絶するものがある。それなりの競争を勝ち抜く大会になると、もはや普通にプロと呼ばれるミュージッシャンでは赤子に見えるレベルで、その演奏はもう常軌を逸して完全に狂気の中で奏でられている。

そんな人が集って競う中で何がその優劣を分けるか、といえば、非常にハッキリ出るのが、意識の差だ。

観客を気にしているプレイヤーは、明らかに演奏が芋になる。

結局、観客はその人の気遣いが見たくてきたわけではない。パフォーマンスを見に来たのだ。だから、そうして観客のことを気にしながら演じるのは、非常に失礼だし、芋に映ってしまうのだ。

あくまでも自分のパフォーマンスに集中し、最高のパフォーマンスを提供すべきなのだ、と私は思う。

だから、舞台に上がった時には、観客は自分の一挙手一投足を待望し、自分が思うまま力を発揮することがそれに応えることになるのだと信じるべきなのだと私は思う。そのために、自分はこれほど多くの人々に望まれている世界一のアーティストなのだと思い、それを披露するのだと思すこむのだ。「お客さん」でもなければ、「観客」でさえない。「観衆」に最高のパフォーマンスを「見せてやる」のだ。だから、「よく見ていろ!」だ。

もちろん、そのパフォーマンスはいかに観衆を沸かせるか、いかに観衆を感動させるかというものだ。だが、自らのパフォーマンスで支配者となる、あくまで自分がホストであり、主役なのだという意識のもとで行われるべきものだと思う。

練習は逆だ。私など、「こんなことではオーディエンスに対して失礼だ」「こんな私ではオーディエンスに対して恥ずかしいパフォーマンスしかできない」と常に自らを責め立てながら行っている。つのだ☆ひろさんが同じようなことを言っていたように思う。

そして、日々の練習は能力の向上だけではなく、実力を発揮するために必要な面もある。これだけ練習したのだから、自分の実力を発揮できるのは当然のことだ、という状態に持っていくためだ。だから、私は本番で、パフォーマンスが練習より劣っていたということはほとんどない。練習以上の力を出せるのは当たり前だ。

これは、音楽に限らないようで、モーターサイクルロードレース世界耐久選手権チャンピオンの北川圭一さんも、自信のために厳しいフィジカルトレーニングを課していたという。

ステージに送る人

私は自分の子を最後までみたことがないので、ステージに送り出す立場になったことは少ない。仲間を送ることがちょくちょくある程度だ。iFoteがいたじゃないかと思う人が、もしかしたらいるかもしれないが、あれは黒歴史なので、どうか忘れて欲しい。

だが、ステージでの失敗は不完全燃焼は、本人が誰より分かっているし、誰より悔しく、誰より忘れられないものだ。

だから、送った人のステージパフォーマンスを責める人は、私は三流以下だと思っている。だから、私はいつも、よくやった、お疲れさま、と声をかける。

そして、その充実も喜びも、分かち合うことはできるけれど、それでも本人達こそが一番リアルに感じているものだから、やっぱり言葉は同じになる。

結局、ステージというのは、いつも聖域なのだ。あちら側は特別だ、と私が言う理由でもある。

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