平等について

Twitterで平等についてのTweetが出回っていた。ちょっとこれは愚かにすぎるが、平等について思うところを述べてみよう。

平等は、大いに価値観や観点などによって左右されるため、絶対性が著しく低いものであると思う。flawless fairnessを掲げる私だが、それによって幼児に対しても言葉遣いも態度も変えないし、子供だからということを踏まえない、もちろん老人であっても、ということに対して「年長者に対する尊敬」などということを言われたりする。平等が尊いということが普遍的な価値観であり、憲法で保証された平等が前提となっていると仮定するのであれば、「全ての人に同様に対応する」のは平等ではなく、「年長者に対して特段の対応をすることで平等となる」ということになる。ということは、年長者はより優待して相当ということになるので、つまりは「若きは価値が低く老いるほどに価値が高くなる」という観点から述べていることになる。

これは「人は平等である」という憲法に反しているように思うし不平等である、と私の価値観に従えば思うのだが、しかしその価値観に基づけば同様に扱うことは、丁重に扱われるべき年長者をかるんじている、ということになる。

この時点で価値観による平等の定義の問題が生じている。

対等に取り扱うことが平等である、という意味には全くならない。特定の者に対して利益となり、それ以外の者に対しては不利益となる(あるいは特定の者に対して不利益となる)取り扱いを万人に適用した場合、その取り扱いのeffectは著しい不平等を生じる。私は女性専用車両は差別であり不平等だと思うが、女性専用車両が男女平等のために必要だと主張する人もいる。しかし、私は生理休暇や産休を認めることが男女平等の瑕疵になるとは思わない。なぜならば、必要であり適切な対応だと思うからだ。「全ての(every)相手に対してそれぞれに(each)適した対応と同等の節度でとる」ことが平等だと私は考える。男性固有の労働に支障が生じる事項があるならば、それに対する休暇も同様に認められるべきだろう。しかしながら私はそれが思いつかないし、実際にそのような名目の休暇の存在も知らない。ということは「休暇を取れる量」という観点では不平等が生じるが、「休暇としなければならない必然性に対する対応」としての不平等は(この時点では)生じていないと思う。

また、例えば災害時の避難生活において、赤子と育ち盛りの少年と食の細くなった老人に「同量の食物を与える」のが平等だろうか?もちろん、「文句が言えない」という意味では平等かもしれない。だがそれは、食物が豊富である感覚を前提とした傲然たる平等ではないか。当然ながら、この場合赤子と老人は余らせる。食物がもったいないという意味もある。では余ったぶんを与えればいいと思うかもしれないが、その場合赤子と老人は満腹になり、少年は飢えている。その事実は平等だろうか?相対量をベースにするという方法もあるが、「必要量」なのか「普段食べている量」なのか「満腹になるまでの量」なのかによっても変わってくるし、場合によってはそれによって必要最低限の量を下回る可能性もある。比較的妥当なのは、必要最低限の量を上回るのであれば、必要最低限の量を不均等に割り当てたあと、残りを相対に従って割り当てる、という考え方だろうが、これは平等というよりも「適正」を指向している。

また、私はバイクの扱いに慣れていて、バイクが好きだ。重くて大きくてパワーのあるバイクも好きだし、それを持て余すことなく使うことができる。一方、ライダーAは400ccのバイクでも過剰で、600ccになると恐い、としよう。そしてライダーBはハーレーのようなクルーザースタイルが好きだ。さて、平等と称して私に合わせて300km/h楽々でるような重量級ハイパワースポーツバイクをライダーAとライダーBも乗ること、とした場合、それは平等だろうか?

さらに税金で考えてみよう。毎年「全ての人が同じ額を支払う」方式にしたら、それは平等だろうか?

これらのことから平等に絶対性がない、というのが私の意見だ。ただし、不平等には絶対性があると思う。誰かを優遇し、誰かを排除するために異なる取り扱いをすることは極めて容易だからだ。

About haruka

主宰。
音楽家であり計算機使いであり、ライダーであり声優でもある。

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