書き忘れていた、刺激を受けた話

本当は5/15(5/14だったかもしれない)書くべき事柄だったのだが(ただし、その後知ったことや今の心境を交えて述べる):

豊岡渚さんがアップした写真が実に見事だった。感嘆しきりというレベルに。

モノクロのたんぽぽの写真だが、これまで割とパンフォーカスなスナップが多かったので特に気にもしていなかったのだが、被写界深度を浅くし、見事に綿毛だけを切り取る写真は技術的にも非常に美しく、しかも構図もたんぽぽが中心にはない(日の丸写真ではない)。さらに言えば、たんぽぽを正面から据えているわけではない。さらに、これをモノクロにする(レタッチしたのか、カメラでやったのかは分からないが)というところにものすごくセンスが出ている。

これは、ちゃんとカメラをやっている人の技術だ(一眼レフをはじめたばかりの私よりもずっと上手い。私はまだピントコントロールが不十分だからだ)し、何よりセンスが素晴らしい。Exifデータは抜かれているため、何を使ったのかは分からないが、これだけ被写界深度が浅いということは少なくともAPS-Cクラスのカメラだろう。

彼女は何にしても、本当にセンスがある。それは感じる。さらにいえば、そのセンスが私とかなり近似している。この構図、切り取り方、私の写真だと言っても私の周囲は何の疑問も持たないだろう。それほど「そっくり」だ。センス頼みで幅広く能力を発揮していけるあたりも非常に似ているし、そのセンスの使い方も似ている。もちろん、カメラという方向に走るのもまたその「近さ」が生む結果だろう(向こうはそんなことを言って歓迎せざる可能性が高いが。

リズムが似ていて響きが近い人。考えかた、思考形成、受け止めかた、着眼点、タイミング、どこをとってもかなりのシンクロを見せ、まるで違う人生を歩んできた自分を見ているかのようだ。そんな人がこの世にいるとは思わなかった。一方で決定的な違いも見せる。同じような時計を持っていて、けれど同類ということではない。そんな人。

私と似ているからの肯定というのは、誠実であることに価値を求めるあたりにおいてそれが心地よさになっていることは認めるが、一方でその価値を形成するために不可欠な要素(essential)は私とは異なる、私にはないところにあったりもする。まぁ、「非常に似ているけれど明らかに別の存在だから」強く好感を持っている、という言い方をしてもいいだろう。

しかし本題はそこではない。どう見ても、彼女のほうが「芸術家度合い」は低い。いや、彼女も相当なものだが、私ほどだったらあんなに協調的にはならない。私のレベルになるとまはや廃人、社会不適合者だからだ。それほどピーキーであることによって、つまり社会生活などと引き換えにして、私はピーク能力を手にしている。そして研鑽と鍛錬を愛し、ピーク時能力面で人を突き放すことによって社会的存在価値を保っているのだ。

別にどう見ても彼女が平時型の人間とは映らないが、それでも私がその道のスペシャリストというわけでもない人に追い立てられてはならないのだ。それが私の宿命だ。敗北は許されない。私に敗北、あるいは挫折の文字はないのだから。しかし、現実にはこうして彼女に突き上げられている。写真への適正が判明したのが最近で、必ずしも年齢的アドバンテージがあるわけではないのだが、それにしても現実としてはやや劣勢なくらい、というところだろう。相手が何物であるかによらず、と言っているのだから、フォトグラファーでもない人に自分にとって才能があるところで負ける、というのは「あってはならないこと」ということになる。

もちろん、相手が素晴らしいのだから全力で賞賛すればよい。私が未熟なのだから全力で向上すれば良い。

私はどうしても、負けてはならないと追い立てられる気持ちでないと、足は鈍る。全力でがんばり続けてはいたが、少々能率が上がらなくなっていた。本格的に体も恐し、トレーニングも休みがちにもなっていた。

しかし、彼女に追い立てられて、そのようなことでは埋もれてしまうと強く感じ、そして私の大いなるモチベーションとなってさらなる努力を重ねるべく火がついた。

結果的には、彼女に尻を叩いてもらったようなものだ。

こうしてモチベートされたり、救われたり、そうして与えられるばかりで、与える術がないのが歯がゆくももどかしい。感謝すると共に、今は努力を以って少しは返せるだろうか。

About haruka

主宰。
音楽家であり計算機使いであり、ライダーであり声優でもある。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です